消費と教養、流される人と流す人と、茨の道【2022.12.8】

消費と教養。私はこの二つが両立するもんやと思ってたけど、どうやらそうじゃないらしい。っていうか、よぉ考えたら当たり前の話やわな。

消費、っていうのは、なんかこうイメージとしては、食事って感じ。確かに栄養にはなるけど、いつまでも体内に留まってるもんじゃない。いつかはそれもエネルギーとして使い果たしてしまって、また食事を取らないといけなくなる。

対する教養っちゅうのはイメージとしては、本棚に本を入れていく感じ。それはこっちが捨てようと思わん限り、残り続ける。

最近消費ばっかしてんな~。だって最近は消費するもんが多すぎる。消費って、短時間でできてしまうんよな。ほんで、満足度がまあまあ高い。

Tiktokとかのショート動画って、ほんまに消費のお手本みたいなコンテンツ。良いように言ったら、暇つぶしにはもってこいなんよな。可愛い女の子の可愛いダンス、手っ取り早くあらすじまで紹介してくれるランキング、一瞬で流行りを分かった気にさせる音楽。やだわ~、マジで。全部「分かった気にされる」。何もわかってないのに。世の中のことを知った気になれる。最悪。

教養っちゅうのは時間がかかる。自分で調べて、納得するまで継続して取り入れ続けないといけないもんやから。本を一冊読んでも、そこから学べる教訓は一個かもしれんし。情報を比較するのも、時間がかかる上にいつまで経っても『正解』が分からんかったりする。

自分の中で自分なりの結論を出すのが怖いのかもな。

最近、なんでひろゆき氏が流行ったのか、すごい考えてる。だって、あんなの、どう考えても信用できなさしかないやんか。言うてることはころころ変わるし、何を言っても馬鹿にされるし。なのになんでそれがバズったんやろうって。

もう人間は、自分で結論を出すのが怖いっていうフェーズに入ってる。全部他人にお任せしたい。自分の言動に責任を持ちたくない。誰かが言ってたから、誰かがしろって言ったから、誰かがやってたから。なんとなく周囲の空気に合わせて、なんでもない表面だけなぞってるのが一番ラクやから。

だから、薄っぺらい内容でも、信用できなくても、「言い切っている」人に寄り添って流されたくなる。だってあの人はあんな風に言ってたじゃん、って人のせいにすることができるから。しかも、言った人は言った人で、「簡単に人のことなんか信じないでください。人間なんだから間違ったことも言っちゃいますよそりゃあ」って顔しといたらいいもんな。

私もそれはすごい楽だろうなって思う。流される人も、流す人も。でも、なんか、そんなしょうもない人生は過ごしたくないなとも思う。しょうもないよ、そんなの。消費したものは、無くなるんだもん。無になっちゃうんだもん。何も残らない物に時間かけるよりは、絶対残るものに時間取った方がいいじゃんね。

なのに、「消費」をしないと、消費している人たちの会話には入っていけないんだよな。面白すぎる。だから結局、消費は必要なタスクに入ってきてしまうんだよ。私は誰も興味無いことばっかやっていたいのに、誰も興味無いことばっかやってたら誰からも見向きもしてもらえないんだから。そんなの寂しいし、しょうもないよな。おもんない世界になったもんやで。

Dopeydog│文字とイラスト

文筆業・本間 海鳴のホームページ。文字と絵と泣きべそをかいて暮らしている。

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